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いま住んでいる家の周りに紫陽花が植えられています。 特別めずらしいものはありませんが、ガクアジサイやアナベルなど数種類の品種が十数本です。 もともとあまり好きな花ではありませんでした。 が、あることがきっかけで好きになりました。 もうあじさいの季節は終わりましたが、この花を見ると懐かしく思い出すことがあります。 それは一冊の本です。 真木悠介著『気流の鳴る音 ━交響するコミューン━』です。 学生の頃、『思想の科学』や『展望』・『思想』・『理想』という雑誌が愛読書でした。(いまは読めませんね。笑) その『展望』の1976年9月号に〈 「共同体」のかなたへ 〉という文が掲載されていました。 その筆者が真木悠介(見田宗介名の著書も多数)でした。 当時、心情的には新左翼・全共闘にシンパシーを感じながらも、それらとは一線を画した若者が存在していました。 彼らは、反体制運動のオルタナティブとして「共同体(コンミューン)」をある種のユートピアとして志向したのです。 そのような志向の若者達には、この真木悠介の著書は〈 砂漠に水 〉のような内容の著述だったのです。 『霧流の鳴る音』の巻頭に、序としてこの〈 「共同体」のかなたへ 〉が再録されているのです。 その文に紫陽花邑のことが記述されているところがあります(二 紫陽花と餅)。 そこに、「山岸会」と「紫陽花邑」の違いを端的に記述している。 つまり、〈話し合い〉と〈感覚〉という共同性の存立の二つの様式の違いと。 そして山岸会の〈ニギリメシとモチ〉の喩えに対し、紫陽花邑では〈アジサイの花〉を喩えにあげていることを紹介しています。 この二つの集団の自己規定は対照的で、集団としてのあり方を性格づけるコアを、山岸会は〈モチ=一体性〉を紫陽花邑は〈アジサイの花=多様性〉をまずみずからの心として置いている、と真木はいう。 そこから、彼は「あらゆるコミューンの実践にとって最も根本的な問題 ━ 人間の個体性と共同性の弁証法の問題が、この逆説(〈 感覚 〉は個我相互の一体を前提に対し、〈話合い〉の方が個々の成員の多様性を前提)のうちに鋭く提起されていると指摘する。 これ以上長々と書く必要はないので割愛いたしますが、要するにアジサイを見ればこの本ことを思い出し、そしてもう一つ思い出すことがある。 それは、当時ある人にこの本をお貸したことがありました。 その方から、ムンクの絵葉書に「この本を私の人生の航海図にいたします」と記された便りが届きました。 同じ空の下で、いまどうしているのだろうか? 日本におけるコミューンの系譜は、宗教者西田天香が京都・鹿ケ谷に開いた「一燈園」1904(明治37)年や、文学者の武者小路実篤が1918(昭和7)年に宮崎県に作った「新しき村」などに遡れる。 高校時代のクラスメイトにM君がいた。 彼の父親は、この「新しき村」運動に共鳴し、神戸の鈴蘭台で養鶏業を営んでいた。 ある日、彼の家に行ったとき、父親から手土産に持って行く鶏肉を捌くようにいわれて、その作業をしていた。 捌いた中から黄身の連結したものを取り出し見せてくれた。 そのときはすごい奴だと感心した。 (これ以来、長らく鶏肉は食べられなくなった。余談) しかし、1970年代前後に起こった「共同体」運動の潮流は、当時の若者達に惹起された世界的な異議申立てやドロップ・アウト、ヒッピー、放浪、新左翼運動などから派生したもので、それ以前のものとは異にする。 それは、高度産業社会における青年世代の中でもマイノリティとしての存在であったのです。 しかも、〈コミューン〉をある種のファッションとして形成しようとしたフリークたちとは別に、もうひとつの潮流として、ワーク・キャンプ運動のなかから生まれてきたコミューン運動であったわけです。 この潮流に属す先駆的事例が、1967年に開設された「砂川青年の家」、さらに70年代の代表的事例としては、「あらくさ」共同体や「集団わっぱ」、そして「弥栄之郷共同体」があったといわれています。 そのような様々な共同体ムーブメントのなかに、知人の幾人もが身を投じたが、彼らはいまどのように暮らしておられるのだろうか? と思っていたら、次のような記事に出会った。 「全国農業コンクールでグランプリ受賞」 ひと: 佐藤隆さん 弥栄之郷共同体(島根県那賀郡)代表を務める「やさか共同農場」がグランプリの毎日農業大賞に輝いた。24日の表彰式で、「40年、がんばってきたかいがあった」と声を詰まらせた。 食品添加物など、食の安全が社会問題になり始めていた1972年、「生活と生産の場が一つになった共同体を作ろう」と、仲間4人で島根県弥栄(やさか)村(現浜田市)の中山間地域に入った。18歳だった。廃屋を借り、開墾地で無農薬の野菜や米を生産したが、収入は上がらず、冬は出稼ぎに頼った。農村に突然、現れた若者たちをいぶかしむ、冷たい視線にもさらされた。 「何のための就農だったのか」。挫折しかけていた時、たまたま訪れた県の工業試験場職員に「ここは水がいい。みそを造ったらどうか」とヒントをもらったのが、転機となった。有機栽培の大豆や大麦を使った、安心できるみそは、時代の流れをつかんだ。みそ造りは冬場の雇用の場にもなり、地域との絆も次第に深まった。 今、「やさか共同農場」は、地元の営農組織とも連携する。契約栽培してもらった大豆やトマトなどを原料に、みそやトマトジュースなどの有機加工食品を生産・販売する。製品は有機農産物の宅配業者や生協、さらには通信販売でも提供され、ファンは増える一方だ。 共同農場では今、35人が働く。入村時の目標が実現した今、「若い世代が自分の責任でハンドルを握れるようにするのが自分の仕事」と、後継者育成にも力を注ぐ考えだ。【南敦子】 (「毎日新聞」2012年07月26日00時25分) このように頑張っておられた方がいたのだ。 他人事ながら、嬉しく思った。
by culon
| 2012-08-02 06:00
| 田舎暮らし
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